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病院について

100 周年特設サイト

このページの内容

院長あいさつ

当院は大正2年4月に創立され、今年100周年を迎えました。
多くのご支援に支えられ、地域とともに存続してまいりました。
新たな100年は名実ともに地域住民の皆様に愛される病院にしたいと思っています。
引き続きのご支援をよろしくお願いいたします。

平成25年4月1日
第九代 院長 渕上 忠彦

メディア掲載

100年のあゆみ

日本赤十字社愛媛支部病院時代(大正2年〜昭和17年)

戦中・戦後復興期(昭和18年〜昭和33年)

昭和20年松山空襲により病院全焼。この後、昭和22年に現在地へ建築移転。
徐々に増築し、昭和26年念願の病院本館を新築して復興を遂げる。

昭和の大改築(昭和34年〜昭和55年)

昭和から平成へ(昭和56年〜平成8年)

これまで増改築を繰り返し、徐々に規模を拡大してきましたが、入院患者は増え続け1〜2ヶ月以上の入院待機の状態にありました。
そこで、更なる増改築を行い、コンクリート造で冷暖房完備の3号館を建設し、病床数800床の病院が完成。

新たな時代への取り組み(平成9年〜現在)

平成25(2013)年現在

赤十字といえば、救護活動

救護は、日赤が最も力を注ぐ重要な任務であり、使命です。
当院でも開設以来100年にわたり、各種救護活動を行ってきました。
  • 敵味方の区別なく犠牲者を救助した戦時救護
  • 終戦後の引揚げに際し、帰還列車や引揚船へ救護員48人を派遣した引揚者救護
  • 赤痢など伝染病が集団発生した際の予防と救護に努めた伝染病救護
  • 石鎚山のお山開きなど各種行事に際し救護員を派遣する臨時救護
  • ハイチ大地震支援など10ヶ国へ9人を派遣した国際救護
  • 関東大震災や東日本大震災など国内で災害が発生した際、こころのケア要員を含め救護員を派遣した国内救護

バラ園「博愛の園」にまつわる秘話とは・・・

昭和29年、名古屋の高校生が修学旅行で四国へ来る途中の船内で集団食中毒になり、高浜港に着くとすぐに40数名が当院へ搬送されました。看護部長は、旅先での不測の病に胸を痛め、寮にいた非番の看護婦、学院生に非常出動を求め、幸いまだ居合わせた数名の医師と協力して次々と丁寧な診察、行き届いた看護を行いました。

その結果、一人の犠牲者も出ることなく3日後には全員が名古屋に帰ることができました。

その23日後に台風15号が四国を襲い、1,008世帯の家屋が全壊流失するなど愛媛県は甚大な被害が発生しました。この被害状況が新聞等で報道されると、いち早く名古屋の高校から以前のお礼を兼ねた丁重な見舞状と見舞金が届いたのです。

この心のこもった温かいお金を、患者さんのために何か意義のあるものに使いたいとのことで、バラ園を造成することになりました。看護婦や学生自らが慣れない手で土を耕し、堆肥を作り、苦労しながら数ヶ月かけて立派なバラ園を完成させました。このバラ園は、「博愛の園」と名づけられ、患者さんを慰め、道行く人々を楽しませたそうです。昭和50年に姿を消しましたが、いつの日かまた再現される時を願っている人は少なくないようです。

酒井黙禅(本名 和太郎)の句碑

3代目院長の酒井和太郎先生は、高浜虚子に師事するなど俳人としても、とても有名でした

院長会議で上京した際には、各院長がサインをもらおうと色紙を片手に酒井先生のもとへ殺到したとのことです。

当院の院長として、大正9年から昭和23年まで28年間勤めるとともに俳誌「柿」を創刊するなど、地方医療に、そして地方俳界にも大きな足跡を残されました。

昭和29年に松山赤十字高等看護学院の卒業式で、看護の世界に旅立つ若い学生へのはなむけの言葉として祝辞の中で詠まれた「春風や博愛の道一筋に」の句が、赤十字人の心の糧にと病院に句碑として建立されました。

碑石は、石手川上流で洗い清めた花崗岩の自然石です。