日本赤十字社 松山赤十字病院

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院長あいさつ
当院は大正2年4月に創立され、今年100周年を迎えました。
多くのご支援に支えられ、地域とともに存続してまいりました。
新たな100年は名実ともに地域住民の皆様に愛される病院にしたいと思っています。
引き続きのご支援をよろしくお願いいたします。
100年のあゆみ
松山市小唐人町(現在の東雲学園)で開院中の愛媛県立松山病院を、愛媛県から無償で譲り受け、全国で10番目の日本赤十字社愛媛支部病院として開院しました。当時は、内科、外科、産科婦人科の3診療科で、病床数は60床でした。
松山城山東側の小高い場所から平地の二番町(現NTT西日本四国事業部・愛媛支店)へ移転新築を行い、
患者さんの通院や水利面
で便利になりました。
眼科を新設し、4診療科で
91床になりました。
7月に支那事変が起こると、戦傷病者が激増しました。陸海大臣から日本赤十字社を通じて戦傷病者の受け入れ要請があり、12月に一般の方の入院を中止して「松山陸軍病院赤十字病院」として約200人の陸軍関係者を受け入れ治療を行いました。
翌年5月には陸軍病院としての指定が解除され、地域住民の方を対象にした医療機関として、本来の姿を取り戻し、再開しました。
再び、
海軍の受け入れ要請があり、
「呉海軍愛媛赤十字病院」として
約400人の海軍関係傷病者を
受け入れ、治療を行いました。
翌年1月1日、
本社病院規則の改正により
「松山赤十字病院」と改称し、
同時に
「呉海軍病院松山赤十字病院」
となりました。
 
昭和22年に、木造平家建にて
各科診察室、病棟、検査室などを新築し、病床数100床で復興の第一歩を踏み出しました。
その後、解剖室や手術室、放射線室も新築し、さらに既存建物の一部を改造して病棟を増やし、昭和26年には病床数は
200床となり、戦災復興事業は完了しました。
これ以降は、鉄筋コンクリート造の新棟や看護婦宿舎棟など次々と建設し、病床数が400床となった昭和32年に、総合病院の
指定を受けました。
終戦後から13年、
幾多の試練と苦悩を
ついに克服した時代でした。
入院患者の増加に伴い、本格的な耐火耐震建造物であり建物近代化の第一号となる5階建病棟(現5号館)を建設しました。
病床数は500床に増床しました。
病院内の医療機器の整備充実を図ろうと、
東芝X線テレビ、シンチスキャナーを購入し、
各種レントゲン機械も整備しました。
その後も、健康管理センターや厨房、託児所棟など
増改築を行い、病床数も640床にまで増床しました。
救急病院の指定を受ける。
臨床研修病院の指定を受ける。
愛媛大学医学部関連教育病院の指定を受ける。
 
防災施設や冷暖房設備を完備した
建築を行い、昭和56年に
病床数800床の病院完成により、
長期にわたる病院近代化工事は、
ひとまず完了となりました。
当日は、日赤社長をはじめ、地元議員の方等、
関係者約280人が出席されました。
林敬三社長より「この日を機に心を新たにし、
今日までの歴史の中に先人が残された数々の偉業をかえりみ、
赤十字の特色発揮と赤十字病院の使命を達成するために、
一丸となってご健闘いただきたい。」と挨拶がありました。
平成9年、地域の医療機関と、より強い医療連携を構築する目的で、愛媛県下で初めて地域医療連携室を設置しました。
当時消化器科の渕上部長(現院長)を室長として、本格的な地域医療連携を開始しました。
平成17年には、地域医療支援病院の承認を受け、地域医療連携室報の発行や、連携医療機関の先生方にもご出席いただく懇談会やイブニングセミナーを開催しています。
また、地域住民の方を対象に「地域医療連携フォーラム」を毎年開催しています。
平成9年、病院が医療を適切に提供しているかを第三者機関が評価する
「病院機能評価事業」が開始されました。
当院は「様々な医療環境の変化に、誤りのない対応をする」ことを
重点施策とし、同年9月の訪問審査を経て、
愛媛県で初めて認定されました。
赤十字病院で初めてのことで、
全国では11番目の速さでした。
初回の認定以降は、5年ごとに更新認定を受けています。
・平成15年:更新:一般病棟
・平成20年:更新:ver.5.0
・平成25年:更新:ver.6.0
平成16年、産科、小児科、小児外科を統合し、成育医療センターを開設しました。「胎児期から思春期まで一環して、こどもとそのご家族を医療、保健、心理の面から支援を行う」という概念のもと、こども達の健やかなる発育をサポートしています。
平成19年、質の高いがん医療を受けられる体制を整備し、
地域がん診療連携拠点病院に指定されました。
院内外の医療従事者と共に学ぶ緩和ケア講演会や勉強会を
定期的に開催しています。
また、がん医療の専門資格を多職種が数多く取得し、
専門性を高めています。
平成23年、「がん診療推進室」を設置し、医師のみならず
看護師、薬剤師、MSWなど
強固なチーム医療としての活動を展開しています。
平成26年10月、新病院建設をいよいよ開始し、平成33年の完成を目指します。
救護は、日赤が最も力を注ぐ重要な任務であり、使命です。当院でも開設以来100年にわたり、各種救護活動を行ってきました。
敵味方の区別なく犠牲者を救助した戦時救護
終戦後の引揚げに際し、帰還列車や引揚船へ救護員48人を派遣した引揚者救護
赤痢など伝染病が集団発生した際の予防と救護に努めた伝染病救護
石鎚山のお山開きなど各種行事に際し救護員を派遣する臨時救護
ハイチ大地震支援など10ヶ国へ9人を派遣した国際救護
関東大震災や東日本大震災など国内で災害が発生した際、こころのケア要員を含め救護員を派遣した国内救護
 昭和29年、名古屋の高校生が修学旅行で四国へ来る途中の船内で集団食中毒になり、高浜港に着くとすぐに40数名が当院へ搬送されました。看護部長は、旅先での不測の病に胸を痛め、寮にいた非番の看護婦、学院生に非常出動を求め、幸いまだ居合わせた数名の医師と協力して次々と丁寧な診察、行き届いた看護を行いました。
その結果、一人の犠牲者も出ることなく3日後には全員が名古屋に帰ることができました。
その23日後に台風15号が四国を襲い、1008世帯の家屋が全壊流失するなど愛媛県は甚大な被害が発生しました。この被害状況が新聞等で報道されると、いち早く名古屋の高校から以前のお礼を兼ねた丁重な見舞状と見舞金が届いたのです。
この心のこもった温かいお金を、患者さんのために何か意義のあるものに使いたいとのことで、バラ園を造成することになりました。看護婦や学生自らが慣れない手で土を耕し、堆肥を作り、苦労しながら数ヶ月かけて立派なバラ園を完成させました。このバラ園は、「博愛の園」と名づけられ、患者さんを慰め、道行く人々を楽しませたそうです。昭和50年に姿を消しましたが、いつの日かまた再現される時を願っている人は少なくないようです。
 3代目院長の酒井和太郎先生は、高浜虚子に師事するなど俳人としても、とても有名でした
院長会議で上京した際には、各院長がサインをもらおうと色紙を片手に酒井先生のもとへ殺到したとのことです。
当院の院長として、大正9年から昭和23年まで28年間勤めるとともに俳誌「柿」を創刊するなど、地方医療に、そして地方俳界にも大きな足跡を残されました。
昭和29年に松山赤十字高等看護学院の卒業式で、看護の世界に旅立つ若い学生へのはなむけの言葉として祝辞の中で詠まれた「春風や博愛の道一筋に」の句が、赤十字人の心の糧にと病院に句碑として建立されました。
碑石は、石手川上流で洗い清めた花崗岩の自然石です。